ネコと紫の日記帳

ひたすら己の趣味の備忘録。読んで下さる方ありがとうございます。

キャラメルボックス『無伴奏ソナタ』2018・4

(全力でネタバレ注意)

(主観的な感想以外の何者でもありません)

とりあえず書き切らないと他のことが書けない。早く書かないと忘れる。けど、相変わらず何をどう言葉にしたらいいのか悩みますね。読み返したら整頓されてなさすぎてやばいけど、私はなるべく頭の中身をそのまま外に出したい人なのでそのままですすみません!

私は、2014年を2回→2012年をDVDで→2018年を2回という順で観たわけですが、ずっとクリスチャンをとりまく人々目線でこのお芝居を観ていたんですね。だから、クリスチャンのことを天才だと思ってたし、人間離れしてると思ってたし、あまり親しみある感じでは彼のことを受け止められなかったというか。「すごい人だな、私にはこんなことできない」って一歩引いたところで見ていたというか。

けど今回の2回目で、ついにクリスチャン目線で観られたような気がするんですよ。全く上手く説明ができないんだけど。ただ、完全な個人の主観だけど、今回のクリスチャンが今までで一番人間ぽかった気がするんです(何がって言えないけど)。だから彼に感情移入ができて、ラストシーンで号泣したんだと思うんです。千穐楽ではあそこで拍手する以外の選択肢がなかった。大阪初日も号泣して拍手したけど、千穐楽の方が気持ちの入り方が強かった。

何て言うかなー…クリスチャンは、ただ音楽が好きで音楽から離れられなかっただけなのかな、と。その音楽や周りの人達との接し方がだんだん変わっていく、という物語が『無伴奏ソナタ』だったのかなと。

第一楽章でメイカーを辞めさせられて連れて行かれる時に、「僕は傲慢だった」みたいなことを言ってたじゃないですか。だから、オリビアとかポールのことをもちろん友達だとは思っていたけど、もっと大事にできたはずなのに、というのをその時に気付いたのかなと。

第二楽章は一番解釈が分かれそう。私、ここではたぶんまだクリスチャンが周りの人を思いやれてなかったんじゃないかと思うんですよね。だから、あのピアノは自分のために弾いてた気がするんだ(ただし、「人のために」が偉くて、「自分のために」が悪い、という意味では全然ない)。けど、それが結果的に迷惑をかけることになってしまっていて。あ、この時も、周りの人達(ジョーとかリンダとか)が自分(クリスチャン)を好きだってのはわかってたのかな。わかってなかった気がするんだよなあ。

えーとえーと、ただの個人的解釈だけど、第二楽章の落ち込みはメイカーを辞めさせられたことに対する方が大きくて、第三楽章の他人との関わらなさは人間関係に失敗した(ジョーやリンダに迷惑をかけた)方が大きいのかなと思ったんです。

で、第三楽章でそれがどっちも掬い上げられたのかなあというか。工事現場の人達、みんな親身になって接してくれたし、歌を歌ったり作ることまでさせてくれた。だから、クリスチャンが歌うことを決めた時は相当な覚悟だったんだろうなと。これを始めたらいつかウォッチャーと出会う日がまた来るとわかってたんだろうなと。

そんで38年後かー…。クリスチャン70歳やで…。70歳でやっと救われたのか…。救われたかな。救われてたらいいなあ。

「人は幸せになるために生まれた」という『シュガーの歌』の歌詞はクリスチャンが作ったのかなあ。泣いていい?

そう。なので(?)、ウォッチャーも今回が一番人間ぽかったです。

千穐楽一言挨拶の石橋さんが可愛すぎて「(『鍵泥棒のメソッド』の)コンドウさんやん!」と思った。なのに、ウォッチャーという人が完璧すぎて本当やばい。あれ石橋さんじゃないもん、ウォッチャーだもん。

ウォッチャーは秩序の人で、あの世界の法律に則ってみんなの幸せ(だと思っている)のために遂行しているんだよね。クリスチャンのためだと思って、クリスチャンを思ってやってるんだよね。うーんうーん、深すぎる…。

「幸せ」って人から与えられるものじゃない、ってことなのかな。

石橋さん本当に好きだと思った。またキャラメル出てほしい。(ウォッチャー以外でも)

今回、長野県でたくさんの高校生が授業の一環でこのお芝居を観たそうなのですが、「このお芝居を高校生で観られるとか幸せすぎて羨ましい」が私の周りでの見解の一致です。高校生でキャラメルボックスを観られること自体が既に羨ましいけど、よりによってこの演目なのがすごい。こんなん高校生で観たら人生変わってしまう。

その高校生の誰かがまたキャラメルボックス観に来てくれたら嬉しいな。(入団とは言わない。めちゃくちゃ大変だろうから)

書き切れたかどうかわからないけど、何か伝われば幸いです。